岡野貞一 Teiichi Okano(1878~1941)
「ふるさと」「おぼろ月夜」など数々の名曲を手掛ける
明治11年2月16日、鳥取県邑美郡古市村(現・鳥取市古市)に生まれる。姉の寿美について通い始めた鳥取教会で幼少より賛美歌に親しみ、14歳の時洗礼を受ける。その後、岡山へ転勤した姉を頼り、明治26年、岡山県にあるキリスト教系の薇陽学院に入学。英語の勉強に打ち込む。
明治28年に上京し、9月には高等師範学校附属音楽学校(現・東京藝術大学)予科に入学。翌年本科に進む。在学中は、音楽学校進学を勧めてくれた永井幸次らと一時同居していた。卒業後は指導者として同校に留まり、後進の指導にあたった。
在任中に文部省から小学校唱歌教科書編纂委員を命じられ、『尋常小学読本唱歌』『尋常小学唱歌』などの編纂にたずさわり、多くの唱歌を作曲した。長野県出身の国文学者 高野辰之の詞に曲を付けた「ふるさと」「おぼろ月夜」などは、100年以上経った今日でも歌い継がれている。
熱心なクリスチャンとして知られ、40年余りに亘って毎日曜日に東京の本郷中央教会で礼拝のオルガン演奏や聖歌隊の指導に当たった。公務の都合以外で教会の務めを休んだ記録がないという逸話からは、実直な性格が窺われる。昭和16年12月29日、63歳で逝去。
田村虎蔵 Torazo Tamura(1873~1943)
言文一致唱歌を提唱、「きんたろう」「だいこくさま」を作曲
明治6年5月24日、田村重蔵の末子として、鳥取県岩美郡馬場村(現・岩美町馬場)に生まれる。
明治25年、鳥取県尋常師範学校を卒業し、東京音楽学校に入学。卒業後は兵庫県尋常師範学校助教諭、東京高等師範学校附属小学校訓導、東京音楽学校助教授などを歴任する。
それまで学校で教えられていた美文調の難解な曲に疑問を持ち、子どもの歌は子どもの言葉で、歌いやすい音域、歌って楽しくなるような旋律でなければならないとの信念を持つに至る。同じ小学校の同僚だった石原和三郎や、東京音楽学校の納所弁次郎とともに、子どもの目線に立った「言文一致唱歌*」の推進を図る。納所との共編により『幼年唱歌』など数多くの教科書を出版し、児童の音楽教育に大きな影響を与えた。
大正11年には文部省の命で、アメリカやヨーロッパ各地に赴き、約一年半の間、音楽視察を行う。帰国後は児童の発声方法の改善や鑑賞教育の推進を行い、東京市視学として行政面でも手腕を発揮した。
昭和18年に逝去するまで、全国各地で唱歌の講演会を行うなど、我が国の音楽教育の発展に尽力した。
スポーツ万能の多芸な人で知られ、気配りや人情に厚いことでも有名であった。
*言文一致唱歌 子どもに分かりやすい話し言葉の歌詞と、分かりやすく親しみのある旋律の曲。
永井幸次 Koji Nagai(1874~1965)
大阪音楽大学の創立者
鳥取藩の藩校「尚徳館」の教師だった永井脩の次男として明治7年2月21日、藩校の官舎があった鳥取市西町に生まれる。幼い頃から讃美歌やオルガンを学び、13歳の時に洗礼を受ける。
明治25年、鳥取県出身の田村虎蔵、林重浩とともに東京音楽学校予科に入学し、翌年、同校本科専修部に進学する。卒業後は、静岡県尋常師範学校を経て、明治33年に鳥取師範学校に赴任。鳥取中学校と鳥取高等女学校も兼務し、唱歌とオルガンの指導を行う。
明治37年に父と弟が死去し、翌年、神戸市中宮小学校に赴任。その後、大阪府清水谷高等女学校に転任し、大阪市内の音楽教師による唱歌指導研究グループ「七声会」に講師として参加した。このころから、親友である作曲家 田中銀之助とともに、音楽教科書の自主編纂を行い、さらに幼稚園、小学校の唱歌教育の改善も進めた。
西日本に音楽学校を設立したいとの強い思いから、実現に向け尽力し、文部省が全国に公募した御大典奉祝唱歌の入選賞金を基本金に、大正4年、私立大阪音楽学校設立の認可を受ける。以後、校地や制度の整備を進め、昭和26年には大阪音楽短期大学を設立し、昭和33年には大阪音楽大学に昇格させた。昭和40年4月7日、91歳で逝去。
関西の音楽文化に対する貢献と尽力により「関西音楽界の父」とも呼ばれる。
五一じいさん ささ舟
かみなりさま など